エッセイなど

真面目なエッセイ(というか警句?)を載せていく予定です。そのうちサチるでしょう。


良い翻訳とは

何事も取っ掛かりが大切である。『神曲』はすごい、と何度言われても文体のせいでなかなか読み始めるところまでいかない。それどころか、翻訳すらなかった時代もあるわけで、そういう状況でいちばん最初の紹介を誰がどうやったか、ということは後々効いてくる。

Wikipediaによると『神曲』の紹介は森鴎外が翻訳した『即興詩人』が最初である。と言われてピンとこなければ、その原作者はアンデルセンで、彼は「裸の王様」のソースだと付け加えておこう。実はこれを書いている時点で『即興詩人』は読み終えていない。それどころか全体の1/4くらいのところで「学校、えせ詩人、露店」と「神曲、吾友なる貴公子」という節に出会った段階で興奮状態に陥ってしまったので、それを吐き出しているのである。アンデルセンの児童文学(たとえば『小夜啼鳥』)を少し読み返してみればすぐに分かることだが、この人は非常に賢い作品を書く。その片鱗は『即興詩人』にも、しかもたった2節に十分すぎるほど出ている。加えて鴎外の文体の優美もあるので、役に立たない甘美な話にもかかわらず読み応えがある。

ちなみに私が『即興詩人』に到達したのは吉田健一がその名訳『シェイクスピア詩集』の付録で激賞していたからである。『神曲』と吉田健一には何の相関もない。このマルコフ連鎖っぽさも文学探索の魅力である。そしてこのエッセイの主眼は、(文学的でなければならぬという意味で特殊な地位にある)文学作品の翻訳にかぎらず、翻訳一般が果たすべき役割についてである。

フォースターは『民主主義に万歳二唱』収録の「文化の価値」という評論でこう語りかける。

現代のような不安な時代では、われわれは過去の財産を向こう岸まで大量に運ばなければならないが、この財産には本とか絵画、音楽だけでなく、こういうものを楽しみ理解できる能力もふくまれている。(小野寺健 訳)

これは「文化というものものしい言葉」に直接言及したほとんど唯一のエッセイで、彼自身も「信条というのは人の心を冷酷にするけれども、私は文化に勝たせたいのだ」と書いているように、ここのフォースターは普段より五月蝿い。ここまで言わせた時代背景を考えれば、内容に余裕がないのも仕方ないが、焦ってしまうと「自分の光を強く明るくして人びとの好奇心をかきたて、人びとのほうから、なぜソポクレスは、ベラスケスは、ヘンリー・ジェイムズはこれほどおもしろいのですかと訊かせる力」は弱まってしまう。せっかくダンテもシェイクスピアもロジャー・フライも出てくるのに。

翻訳の根幹部分は芸術あるいは創作活動ではない(繰り返しになるが、文学作品の翻訳は別だ)。今思えば『即興詩人』をよみがえらせた森鴎外の翻訳作業(彼は当時多くの翻訳を「作業」としてやってたらしい)では、ネチネチ九年の歳月をかけたという意味でも文体に余裕が生まれ、良質の紹介(ダンテ、ウェルギリウス、イタリアの風景・・・)を含んでいるという点でも歴史に何らかの響きを与えた。余裕は質を左右し、紹介は帰結を生むと言えよう。これが翻訳の意義である。

凡人が日常生活で考えることで、わざわざ発表するほど新しいことなんてほとんどない。思いつくことの99%は誰かが既に言ったことだと考えてよいだろう。(科学の場合は過程に多様性があるから、まだ救われてるのかも。)だから口で言うのはともかく、こうして(オリジナルの顔をして)自分の考えを文章化することにどの程度意味があるのか、といつも不安になる。その点翻訳のいいところはオリジナルの顔をしなくていいところ、内容に責任をもたなくていいところだ。悪しき批評趣味と言われればそれまでだが、その作品を翻訳したということ自体に翻訳家じしんのアイデンティティーが入っているとこじつけることもできる。(というか、それがないなら将来有望な機械翻訳に任せればいいと思う。)

込み入った主張で長くなってしまったので、翻訳全般の分析としては不十分なまま閉じてしまうことにする。言いたかったことは「横文字を縦文字に変える」ことが翻訳の本質ではないということである。そして言語能力の低い私のような人間が(気晴らしに)翻訳することのいいわけとして悪用してしまうかもしれない。(2008年10月19日)


興奮冷めやらぬ夜更けに

南部さん、小林さん、益川さんがノーベル賞を受賞した。特にこの賞の場合は単なる結果論ではあるが、自分達が一生懸命勉強した内容がそのまま賞になり、仲間と喜びあえる体験というのは本当にすばらしい。南部さんは固体物理から破れた対称性を持ち込み、その後の素粒子論の道を示した。また、物性サイドからすれば、(物理学という学問の対称性が破れ)もはや道は断たれたかと思われた高エネルギー物理との間にあった砂漠地帯に種を蒔いた恩人である。今や私たちは場の理論という言葉を使えばエネルギーコストゼロで巨大分野間を往来することができる。「物理はひとつだ」という宣言の筆頭には間違いなく彼の署名が入っているはずだ。

自発的対称性の破れはシンプルである一方、真に豊かな内容を含む概念で、物理学上のパラダイムとしてのみならず、現実生活の体験とも(アナロジーとして)容易に繋げることができる。南部さんの青い本に書いてあるたとえ話のようなのでよければいくらでも作ることができる。究極の理論物理の目標が「世界の眺め方」を教えることであるとするなら、相対論や繰り込み群に並ぶ最高級の概念だと思う。

理論物理の指導原理はたしかに「実験との一致」である。それだけ見ていれば芸術とはかけ離れた淡白な代物でしかないと思われるかもしれない。しかしその過程で生み出される理論的な考察というのは(通俗的な意味で)純粋に美しい。芸術の敵かと思いきや、実は人間の審美眼を自然が求めているのだと私は考えている。そしてそれは世界を変える力をもつ。20世紀の物理はたしかに美しかった。それは深く勉強すればするほど痛感する。21世紀の物理は果たして美しいものになるのだろうか?残された私たちは考え続けないといけない。

とこう書いてみると、日本人だからとか先輩だからとかはどうでもよくなってきた。美しい物理にノーベル物理学賞が届いたことが素晴らしいのだ。(2008年10月7日)


文化とは何であるべきか

Brad Pitt出演のA River Runs Through Itという映画を観た。これは古き良き中部アメリカを回想する内容の映画で、その中心にフライフィッシングがある。この映画そのものの批評はしないが(NY Times参照)、この作品を通して文化の本質が垣間見えるので、それを紹介する。

いきなりクライマックスについて言えば、ポールが巨大マスを釣り上げるところなのだが、この場面は単に彼ひとりの人生のクライマックスではない。彼らの生活全体が完全な調和をみた永遠の瞬間なのだ。ポールの特異な性格と、それを支える周囲の人々がひとつになった美しい時間が、観ているものの心に流れ込むのである。

子供の頃、私も釣りに凝った時期があった。しかしこの映画に出てくるような大自然と開放的な空気はいまどき求めるべくもなく、中学高校と忙しくなるにつれて止めてしまった。しかしどうやら話はそれほど単純でないと今なら解る。粗く言ってしまえば、釣り文化は、今の日本では、自然とも人々の生活とも乖離したビジネスでしかない。別の言葉で言えば「釣りのための釣り」である。こんな文化が子供の心に長く訴えるわけがないのだ。結論から言えば、これを文化と呼ぶのは完全な間違いである。

映画ではフライフィッシングは神聖なものとして扱われている。それはフライフィッシング独特のリズムとか、自然との調和を大切にするところから来ていて、ここまでは本や雑誌からも読み取れる程度の話だ。しかしこの映画ではその上を行く。フライフィッシングは彼らの生活の一部なのだ。

現代文化は「XのためのX」という言葉で説明できる(「YのためのX」というのはここで扱う気も起こらない下等な話だ)。「音楽のための音楽」「歴史のための歴史」「文学のための文学」というのは昔からあったが「会話のための会話」「仕事のための仕事」「研究のための研究」なんかは割と新しい傾向だと思う。そして最悪の事態「文化のための文化」が実現しようとしている気がしてならない。果たして世界はバラバラに分離してしまう運命にあるのだろうか?

この映画が教えてくれるのは、文化と生活は密着したものであるべき、という当たり前のことだ。フライフィッシングと懐古趣味の組み合わせはその説明に好例というわけで、文化と名がつくはずのものすべてに適用できる話になっている。人類の歴史で今ほど物事のスケールが大きくなった時代はなかった。世界のクラスターサイズが大きくなる一方で、各要素間の結びつきは小さくなってしまったように見える。「趣味は趣味、生活は生活」というのはよして、すべてが調和した人生を送りたいものである。(2008年7月19日)


Offline Day

This Transitional Period

With or without knowing, we intellectual workers seems trapped by computer technology. Using variety of tools, it looks as if anything is possible but still it is mere fantasy. As deeper we get inside the swamp of computer, more dissatisfaction we notice (except few wizardly people). Layers of Googled information is becoming unattractive, and we just get tired about scattered fragment of the world which MUST otherwise be beautiful. Cause of our stressful life listed below.

Xanadu has not come yet, and I don't know whether it's coming. What we can do now is stop struggling with evolutionary products and quest for what we have missed since the invention of the telephone.

Take Action

Not Doing is physically the most easy thing we can do, but also most unrealizable thing. What you have to do is just stop touching computers for a day or a week, and do the realistic activities listed below.

Actually, I'm just a student but I myself sensed a danger even at the university. To alarm others is the duty I believe at this cold age. (4 May 2008)