リチャード・ファインマンとビル・ゲイツ
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ゲイツ: これまでの議論からすると,本当に優れたソフトウェア・エンジニアは違う分野からも着想を得られるようでないとダメですね.

ファインマン: そうです!私はノーベル賞受賞の講演で,優秀な物理学者は幅広い物理的な視点をもち,数式を使いこなす能力をもっておけば有利だと説いたつもりです.みんながみんな,既によく分かっている分野に関する表現や考え方の主流に乗っかっていては,未解決問題の理解にも限界があります.もちろん流行の先に真実が転がっていることもあるでしょうが,もしも反対の方向だったら誰が見つけるというのでしょう?

新しい世代のソフトウェア開発者にも同じことを言っておきたい.すでに知っていることや,既存のものに自分を閉じ込めないでほしい.観光客ではなく探検家でなければならない.分野を横断して物事を眺めてほしい.違う音色の太鼓に身を任せる勇気を持とう.海岸の波の上の分子が揺動する様子,ミツバチの巣形やアリのコロニーの複雑さ,天空を流れ落ちる星,記憶と言語の性質,雪の結晶の対称性,そういったものから何かを感じ取れるはずなのです.終わりなんてないはずです!つまるところ,自然は我々よりも豊かな創成力を持っているのだから,自然について知っていることを我々が有効に使えばいいのではないでしょうか?

ゲイツ: 全ては子供時代の好奇心に帰着するということですか?

ファインマン: その通りです!そして,歳をとるにつれてその好奇心を維持できなくなるというのは悲劇なのだと思います.

ゲイツ: 師の尊敬する科学者は誰ですか?

ファインマン(少し考えて): サディ・カルノー,ジェームス・マクスウェル,そしてポール・ディラックの3人だね.

彼は説明する: カルノーは蒸気機関の熱効率の基本から自然の一般原理を獲得しました.マクスウェルはたった一押しで電気・磁気・光学現象を統一しました.そしてディラック.彼の本『量子力学』を読んで以来私のあこがれなんですが,彼は電子の相対論的な方程式を発見しました.

ゲイツ: 師がノーベル賞をとった以後の最も面白い発見は何だと思いますか?

ファインマン: 液体ヘリウムの理論に関する仕事は自分でも気に入っていました.もうひとつはゲルマンとやった,弱い相互作用の法則を発見したことですね.陽子のいくつかの性質を説明するパートンの理論というのも作りました.そして今は身を引いています.いくつかのアイディアを頭の中で巡らせてはいますが,これから何をするかは全く分かりません.こうやって結局最後にどんな奇妙な領域に行き着くか分からないというのが醍醐味なんだと思いますよ!

ゲイツ: 何か残念に思っていることはありますか?

ファインマン: もちろんそれもあります.難しい問題を解こうとして何年も頑張ったけれど,結局成功しなかったことがね.ひとつは乱流の理論.まあこれは未だに解決されていません.もうひとつは,2・3年取り組んだにもかかわらず超伝導という現象を解明することができなかったということ.液体ヘリウムで成功したときに尻尾を掴めればよかったのですが.

ゲイツ: その悔しさは今でも消えないのですか?

ファインマン: まったく消えないね!失敗したことにだって,私は大変な時間と労力をかけている.人々は私の成功だけを耳にするかもしれませんが,失敗については何も知らない.どの問題が重要かを見抜き,最善の努力をすることが大事なのです.成功すればまあそれでよい.たとえ成功しなくたって,いつも新しいことを学んで終わりたいじゃないですか!

ゲイツ: 乱流の話が出ましたが,それは複雑性科学の一部と考えてもよいのでしょうか?

ファインマン: ええ.ミツバチの群れが移動する様子*1から人間の脳神経回路の自己組織化まで,世の中にはまだ分かっていない現象がたくさんあります.ほんの少しの規則からそんなとてつもなく複雑な現象が引き出されるのはどういうことでしょう?どの複雑系理論もこの基本的な問題に答えないといけません.そしてそれは真にやりがいがあることだと分かってきたのです!

ゲイツ: それは複雑系を解明しようとしてきたこれまでの手法が失敗だったということでしょうか?

ファインマン: 多分そうでしょうね.そうじゃなきゃとうの昔にこれらの問題は解決しているはずでしょう!ソフトウェアも同じことです.2千万とか3千万行のコードで書かれたソフトウェアが整然と動作すると確信できるなんて妙だと思いませんか?既存のアイディアにある程度懐疑的であること,また一見変わったアイディアに対して寛容であることが必要なのだと思います.要するに,本気で複雑系を研究しようと思ったら物理学と生物学そして計算機科学の間にある基礎的な関係を調べないといけないということになると思います.

ゲイツ: といいますと?

ファインマン: 理解しようとしている宇宙とか生物系を記述する計算機的なモデルがあるかどうかということです.この分野は全くの未開で,必然的に学際的な研究が要求されるでしょう.

ゲイツ: マンハッタン計画の間に,師は20世紀を代表する強靭な頭脳と関わりをもちました.エンリコ・フェルミ,ニールス・ボーア,ハンス・ベーテ,ジョン・フォン・ノイマン,スタニスワフ・ウラム,ロバート・オッペンハイマーといった面々ですが,再びこのように「知の巨人」が集結することがあると思いますか?

ファインマン: ロスアラモスでは状況が違いました.この計画には戦争に勝たねばならないという使命があったのです.その上,科学が実に面白かった.やっていくうちに発見や発明がどんどん出てきました.そのような状況が再び起こるかどうかは分かりません.時代は変わって,今では学問自体がもっと系統だっていますし,君の言葉を借りれば「市場主体の」世界になってきています.しかしそんなことはあまり関係なくて,今でも優れた頭脳をもっている人はたくさんいます.あなたの分野でも,技術的な限界を押し上げたり,人々がどのようにコンピュータと関わっているかを考えている優秀な人材がいますよね.

ゲイツがアルタデーナにやって来た本当の目的を達成する瞬間が今まさにやってきた.ゲイツはそれを待ち構えていたのだ.すべてはその前奏曲に過ぎなかったのだ.

ゲイツ: ところでマイクロソフトのコンサルタントになっていただけませんか?

ファインマンの答えはすぐに返ってきて,明確だった.「そんなばかげた話は聞いたことがない!」

ゲイツは安心した.彼はファインマンについての話を十分読んでいたので,その言葉が本当はファインマンの興味関心を表すということも知っていた.

ゲイツは微笑んで,ファインマンの息子カールも一緒に働いてもらいたいと付け加えた.

ファインマンは興奮して赤くなり,「悪くないね」と完璧なブルックリン訛りで言った.

ゲイツは何事もはっきりさせておかないと気が済まない質なので,「来月はどうでしょう?」と尋ねた.「マイクロソフト社内を案内します.そうすれば新しいアイディアを研究・開発している人たちにも会えます.彼らのやっていることが気に入ってもらえると思いますよ」

しかしファインマンは彼の話をさえぎって言った.「私はこれから旅に出るので,それは無理だ」ここで大げさに間を置いて,大きな声で「タンヌ・トゥーバへ!」と叫んだ.

ゲイツは外モンゴルより向こうにある中央アジアの奥地(首都の名前はキジル)へのこの旅の計画をよく知らなかった.ファインマンがトゥーバへ行きたがる理由の一つは,彼自身が言うように「K-Y-Z-Y-Lなんて綴りの首都があるところが面白くないわけがない!」からだそうだ.

ゲイツはふと,「自分も連れて行ってほしい」とファインマンにお願いしようかと考えた.そしてため息をついた.あまりに多い約束と基調講演のことを思い出したのだ.他の働きバチとまったく同じように,予定や締め切りに捕われた囚人ではないか!ということに気付いてぎょっとした.

「それではトゥーバからお帰りになってからは?」もはや悲愴な響きだ.

ファインマンは窓の外を眺めた.あと1時間もすれば太陽は沈む.日陰は長くなり,さわやかな風がプラタナスの葉を揺らしている.

「いいとも」にっこりして彼は手を伸ばした.ゲイツは喜んで握手をした.

「ソフトウェアの世界には近々革命が起こります.そのとき現場にいれば楽しいと思いますよ」とゲイツが言った.

「もちろんそうさせてもらうよ」

ゲイツは念を押した.「秘密は私たちの最も重要な財産です.優れた製品はそこから生み出されます」

「いいや,違う」ファインマンは穏やかに言った.「想像力が全てだ」


シアトルへ向かう機内で,ゲイツは落ち着かなかった.機内雑誌を手に取ったものの,その凡庸な内容がすぐに嫌になった.彼は通路をのしのし歩いて,まだ頭の中に駆け巡っている知的なエネルギーを発散できたらいいのにと思った.しかし彼の自家用ジェットは機械の故障で緊急着陸をすることになったので,それは現実的な選択肢ではなかった.

彼は背もたれを目一杯倒して目を閉じた.「優秀なやつを集めてさっさと開発チームを作らないといけないな」彼は考えた.「ファインマンがマイクロソフトに来たら,分野を超えた着想を探し,自然の想像力から学ぶ必要がある.マイクロソフトが大きく変わる時期がきたようだ」

Copyright: Hasan Zillur Rahim (2007)

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訳註

  1. 巨大な固まりの状態で空中を移動する.